イマヌエル・カントの感性と悟性ってなに

人間の認識方法は感性と悟性のふたつで完成されるとカントは考えた。

 

感性とは、外界の刺激に応じて、何らかの印象を受け取る認識能力で、感覚と考えてもいいです。悟性とは、感性と共同して認識を行う能力で、その認識には感性と違って、理性は判断力が伴います。「understanding」すなわち理解力です。

 

人間は感性と悟性がふたつが一つになって、世界を認識するのだと考えました。ベーコン・ロック・ヒュームのイギリス経験論のように、人間は確かに白紙のままで生まれてくるのだけれど、動物との違いは悟性という能力を持って生まれてくることだと考えたのです。

 

この悟性は、デカルトの「生得観念」と似ているが少し違うのです。

 

カントは、まず、人間は経験に先立って、空間と時間を理解していると述べました。たとえば、ものごとには原因があって経験があるという因果律を理解する認識の仕方、朝が来たら夜が来る、というような。この悟性(後天的な経験)は人間に備わっているとカントは考えたのです。

 

人がものごとを認識するという行為は、感性と悟性の共同作業である。感性と悟性によって構成された認識の枠によって、人はものごとを認識するという、二重構造をカントは考えたのです。

 

人間は、ものごとを感性で認識すると同時に、悟性の枠に対象物を当てはめて、そのものごとを認識する、人は自分の感性と悟性で構成される認識の枠によって、対象を見ているに過ぎない、人が果たしてその対象の本当の姿を見ているという保証は、どこにあるのか。それゆえに人は、そのもの自体を見ているのではなく、認識の枠がとらえた現象を見ているのである。

 

すなわちカントは対象と現象は違うという、二元論に立ったのです。

 

人間は世界に存在している事物の真実の姿を、永遠に知ることは出来ない。人はその対象の現象を認識しているだけであるという理論だからです。

 

それまでの哲学の認識論では、対象をそのまま対象として認識し、それが真実の存在であると考えていました。ところがカントは、人間の認識の枠組みで対象の現象を認識しているだけで、その事物の真実の姿を見ることは不可能であると断言したのです。