マルクス・アウレリウスってどんな人

ハドリアヌス帝アントニヌス・ピウスを後継者に指名する条件として、マルクス・アンニウス・ウェルスルキウス・ウェルスの二人をアントニヌスの養子にするのと、二人の権利も同等とすることとしたのです『マルクス・アンニウス・ウェルスは後のマルクス・アウレリウスである』

ハドリアヌス帝が旅人皇帝であったのに対し、アントニヌス帝はその治世をローマで過ごしています。アントニヌス帝のときのローマは、内政も外交も安定していて、一度の戦争もなかったので、マルクスに位を譲ったとき、ローマの国庫には六億七六〇〇デナアリウスという、最高額の資産が遺されていました。

 

マルクスとウェルスの二人を養子にしたアントニヌス帝でしたが、二人の能力に差を感じていたようです。そして、アントニヌスは亡くなるとき、後をマルクスに託したのですが、マルクスハドリアヌス帝の遺志を尊重し、ウェルスと共にローマを治めることにしたのです。

 

マルクスは義弟ウェルスついて「自省録」で語っています。

「弟として、私の弟のような者をもったこと。彼はその性質により、私をして注意深く身を省みるように刺激し、同時に尊敬と愛情によって私を喜ばせてくれた」

 

ウェルスが脳溢血で亡くなった後マルクスは新たな帝を立てず、一人でローマを治めていきます。ウェルスとの共同統治はわずか八年で終わります。

 

「哲人皇帝」の異名でも知られるマルクス・アウレリウスは、早くから哲学に興味を持っており彼は、ストア哲学の徒でした。ローマ人にとって公職に就くのは名誉なことなので、ストア派はローマ人の価値観に合っていたのだと思います。

 

アウレリウスの治世は、疫病や異民族の侵入、気候変動によっての洪水や飢餓にも悩まされる厳しい時代でした、このような時代には、民衆の心は宗教に救いを求めるようになり、イシス、ミトラスなどが人々の心を捉えるようになっていました。

 

幼い頃から哲学を学んだ哲人皇帝は、昼は異民族と戦いながら、夜は一人皇帝としての責任とは何か、神々と人間の関わりについて、実にさまざまなことをストア派の伝統に基づいて書き続け、まとめたのが「自省録」なのです。

 

かつてプラトンは、ギリシャの民主主義に絶望し、最も望ましいのは優れた哲学者が皇帝になる「賢者の独裁」だと主張しました。こうした考えに基づけば、マルクス・アウレリウスは理想的な皇帝だったのではないかと思います。