ルターとローマ教会とプロテスタント

ローマ教会のシンボルでもある、サン・ピエトロ大聖堂の改築工事が資金不足で進まなくなり、ローマ教皇のレオ10世がドイツで贖宥状を売り出すことにした。(贖宥状とは、これを所有していれば、犯した罪の償いを軽減されるという、万能な赦免状のようなものです)

 

贖宥状が売り出されてから2年後に、ヴィッテンベルク大学の神学教授のマルティン・ルターが「贖宥状に対する95ヶ条の課題」を提出し、贖宥は神のみが可能であり、教会にはなしえぬことだと断言し。「人間の罪を身代わりになって宥すことができるのは、神のみである」と提言した。

 

聖職者たちの贅沢や堕落に対して問題を抱いていた庶民たちは、このルターの問題提起を契機として、ローマ教会を強く批判するようになっていきます。

 

これに対して熱心なローマ教会信者でもある、ハプスブルグ家のカール5世は、事態を重視し、ドイツ諸侯(江戸時代の大名みたいなもの)とルターを召喚しました。カール5世はルターに、教会を弾効するのをやめるよう迫りますが、ルターはそれを拒否しました。そこでカール5世はヴォルムス勅令を発して、ルターから帝国市民家を奪い、その著書の禁圧を命じた。

 

ルター派宗教改革に賛成する声は、日増しに強くなていき、ルターの聖書中心主義を超えて、過激な宗教改革者のトマス・ミュンツァーなども現れ、過重な税金廃止と農奴的負担の拒否を訴え、さらに領主の存在をも否定して、農民たちを決起させ、ドイツ農民戦争がドイツ中部から南部にかけて拡大していったのです。

 

ルターは、ローマ教会が聖書に書かれていないことを勝手にやることを激しく批判しました。ドイツ農民戦争に対しドイツ諸侯に鎮圧を呼びかけました。それにより、ドイツ農民戦争は弾圧されましたが、この戦争によってルター派の教えは全ドイツに拡散しました。

 

ルター派などの宗派は、ローマ教会を旧教と呼ぶのに対して新教と呼ばれたりします。これらの新教の宗派は一般には、プロテスタントと呼ばれている。