饗宴のディオティマってどんな人
人は何のために生きるのか。人は幸福のために生きるのだろうか。古代の哲学においては、幸福に生きるかどうかは選択の問題ではなかった。
人間が幸福に生きることは、人間が生まれながらにして持っている願望である。したがって、そこは問題ではない。問題はどうやって幸福に生きるかにある。その一つの目標になりうるのは、名誉や名声を求めて生きることかもしれない。とディオティマは言う。
プラトンの饗宴に登場するディオティマという女性は、ソクラテスに興味深い話をしている。
人間だけでなく、すべての生きものは幸福を求めて生きている。その幸福とは永遠の生である。けれども、死すべき生きものにはいつか死が訪れる。そのために、生きものは自分の代わりのものを後に残すだけと言うのである。
動物は個体としてはいつかは死に絶えるが、出産という行為によって、自分に似た個体を後に残していく。個体としての動物は不死ではないが、出産という行為によって、その種の全体において不死であろうとするわけである。今ならこれは動物の本能として説明されるだろう。
「饗宴」は「愛」エロースをテーマとする作品なので、動物はエロースの働きによって不死願うわけである。
動物は出産という行為によってのみ不死を追求することが可能となるが、人間の場合はそれだけではないと、ディオティマは言っている。人間は他の動物と違って、自分がこの世において成したことを後世に残したいと考える。
つまり、自分という個体は無くなっても、自分がこの世において生きていたという証のようなものを残そうとするのである。名誉、名声を求めることはそうした例に含まれる。それはいわば精神的な意味での出産であると。
死後の名声に期待を寄せる人は、自分のことを覚えている人自身もまた、死んでしまい、やがてはその記憶の全体が消え去ってしまという、という事実を心に留めるべきだと、マルクス・アウレリウスは自省録で語っている。