フーコーから見るラジオ体操の闇

まずはフランスの哲学者ミシェル・フーコーの『牢獄の誕生』の中の兵士の造形に触れたいと思います。

『十八世紀後半になると、兵士は造型されるものとなった。まるでパスタを練り上げるように、兵役不適格な身体を材料に必要な機械が造り出されたのである』

『姿勢が少しずつ矯正された。計算ずくの束縛がゆっくりと全身にゆきわたり、身体の支配者となり、全身をたわめて、いつでも使用可能なものに変えた』

『それはさらに日常的な動作の中にそっと入り込み、自然な反応として根付いたである。こうして、身体から「農民臭さ」が追い払われ「兵士の風格」が与えられたのである』

 

日本は明治維新後、山形有朋によって国民皆を兵士にする徴兵制が導入されました。

 

明治十年の西南戦争の時、農兵がはじめて薩摩士族兵と死闘を演じて勝利を収めました。このとき大久保利通らは各藩から士族兵を募ることを主張したが、山形は農兵を訓練し戦地に派遣することに拘ったのです。

 

山形は人間の体は政治的な技術によって加工することが可能であり、それは数ヶ月をもって足りるという、人間の体というのはどうすれば動き、どうすれば縮み上がり、どうすれば死をも恐れぬ兵士となるか、の技術を剣戟と砲声の中で習得していたのでしょう。

 

この軍事的身体加工の成功西南戦争の勝利)をふまえて日本は体操の導入に進みます。明治九年には文部大臣が軍隊で行われていた「兵式体操」を学校教育の現場にも取り入れました。生徒たちには道徳の向上のためとしたのです。

 

国家主導による体操の普及の狙いは、もちろん国民の健康の増進や体力向上ではなく、操作可能な身体、従順な身体を造型することでした。

 

体を標的とする政治技術が目指しているのは、単に体だけを支配下に置くことではなく、精神を支配することこそ政治技術の最終目的なのです。

政治権力が民をコントロールしようとする時、権力は必ず『体』を標的にします。いかなる政治権力も人間の精神にいきなり触れて、意識過程をいじくりまわすことは出来ないのです。

 

最後にまたミシェル・フーコーの『牢獄の誕生』から引用します。

『身体は政治的領域に投じられる。権力の網目が身体の上でじかに作用する、権力の網目が身体にかたちを与え、刻印を押し、訓育し、責めさいなみ、労働を強い、儀式への参加を義務づけ、そして、記号を持つことを要請するのである』

 

 

仕事の意味

ギリシア神話に登場するシーシュポスは、神からの罰でタルタロスで巨大な岩を山頂まで運ばされる。あと少しで山頂に達すると岩はその重みで底まで転がり落ちてしまう。シーシュポスはまた一から同じ作業を繰り返す。

→不毛な労働が延々に続くのが、最も残酷な罰であることをわきまえている点に神々の賢さが表れていると述べている。神々が不毛で望みなき労働以上に残酷な罰はないと考えたのである。

 

『人間は生活のために労働する必要を感じる唯一の生き物だ、労働がなければ、私たちは退屈のあまり死にたくなってしまうだろう』

→退屈とはやることの量の多寡にではなく、自分の行うことにどうやったら意味を見出せるかに関わる問題だ、そうした意味をうまく見出せないでいる時、時間はおそるべき重圧となる。

 

→ある考えが浮かんだ。どれほど凶悪な殺人者も震え上がり、聞かされただけで立ち所に尻込みするような、何よりも恐ろしい刑罰を加えて、ある男を完膚なきまでに打ちのめしてやりたいと思ったのなら、その男を仕事に就かせればよい、ただし、全くもって得るところも意味もないような仕事にだ。

 

『客体化』と『疎外』を区別した上で、人間は労働する中で自らの本質を表明する、客体化への欲求をも人間だけが疎外されうる。

→労働を行い、外界を変形させてゆくとき、人々は自分自身を外的な財という形で客体化している。

→疎外の一つの分業については「分業が創造過程の断片化を招き、作業がどこまでも細分化され、その結果についには労働自体が無意味になる。

※客体化とは、主体である自分以外のもの、または、主体の意思・認識・行為などの対象となるもの。例えば「私は美しい花を見ている」『私』は主体で『花』は客体になります。

※疎外とは、疎遠なものになってしまう、関係ないようなものになってしまう。ということ。

※分業とは、効率化の追求のため全ての工程を一人で担当するのではなく、複数の人員が分担すること。

 

→各々の労働者がその生得的な資質に従って、特定の技能を要する作業に従事すること。

 

分業は人々の生得的な資質の差から帰結するものではない「生産向上のためには、分業こそ常に最も重要な要因であり続ける」

 

→一人目が針金を引き伸ばし、二人目がそれを真っ直ぐにし、三人目がそれを切断し、四人目が先端を尖らせ、五人目がその先端を磨いて頭部を揃える。頭部を作るのにも、二、三の異なる作業が必要となる。こんな風に一本のピンを作り上げるという重要な仕事は、約十八の異なる作業から出来上がっている。いくつかの工場では、これらの作業が全て異なった人間の手で営まれいる場合や、一人の人間がこのうち二、三の工程をこなしている場合もある。

→こうした分業によって、1日に一人あたりの製造可能なピンの本数が、個々の労働者がめいめいで一本のピンを丸ごと作るときに製造できる本数と比べた場合に、どれほど膨大な数に達するだろうか。

 

努力信仰

努力信仰が日本の精神に蔓延るようになったのは明治時代です。

 

明治政府を作ったのは薩長出身の武士たちで、彼らは都会の江戸っ子に負けてはならない、欧米に負けてはならない、その焦燥感、その圧力よって努力信仰が生じてきました。

 

江戸時代は努力信仰が尊ばれる雰囲気ではありませんでした。江戸時代は遊びが尊ばれる時代でした。遊びというのはプラスの概念で、教養のある人で余裕のある人にしかできない高尚で粋なものだったです。

 

庶民の識字率も高く、浮世絵を買ったり、お芝居に行ったり、文化的にも豊かな時代でした。『宵越しの銭は持たない』という気風の良さにも端的にあらわれています。江戸では滅私奉公で、コツコツお金を貯めて何かするという事が格好の悪い事、気恥ずかしく、粋なことではなかったのです。

 

なぜ、遊びを高尚で粋なものと考えていた庶民が明治維新で変わったのか。

 

それは明治時代には他国と比べてまだまだ途上国という意識がありました、これが薩長の江戸っ子に馬鹿にされてはならないという焦燥感と結びつき、彼らに追いつかねばと元勲達こそが焦ったのです。そして、大衆もその流れに乗っていったのです。

 

マイナスの自己評価から始まって、そこを埋めるために努力努力で積み上げていき、真面目にコツコツと努力さえしていれば実を結ぶという信念は、もともと江戸にあった気風ではなく、薩摩や長州の人たちの考え方が支配的になったことで表れたものです。

 

努力は一定の成功をおさめました、ただ、その過程で失われてしまった遊びの豊かさや日本人らしい感性も、努力を重視しすぎたあまり貧困になってしまったことは否めません。

 

江戸から明治にかけてが一つの分水嶺でした。悪いことに、日清戦争日露戦争という自分達の実力以上の勝利をおさめてしまったという不幸な出来事によって、時代の空気が変わってしまったのです。

 

この時、盲目的に努力するという行為が美化されてしまいました。

 

アリとキリギリスの童話で言えば、キリギリス的な生き方が粋ではないか、という考え方が江戸にはありました。本来遊ぶということはとても高尚なことです、人間にしかできません。働くことや単純作業は機械ができますが、遊ぶということはとても難しいことなのです。

 

必要なもの以外にもリソースを割けるのが豊かで洗練されているの証拠なのです。

 

マックス・ヴェーバーからみる金儲け

お金持ちになるのは、金銭欲の強い、お金に執着する人であるとは限らない、むしろ、お金への執着を離れ、ストイックに働いた人がお金持ちなったのだと、社会学の祖マックス・ヴェーバーは言います。

 

ヴェーバーは、キリスト教における、カトリックプロテスタントの人々の経済格差に注目し、資本の保有や仕事の質と言った点で、プロテスタンティズムの人々の方がカトリックの信徒よりも裕福であるというデータに着眼したのです。

 

ヴェーバーが研究したのは16世紀フランス出身の神学者ジャン・カルヴァン宗教改革でスタートさせた、プロテスタントの一派のカルヴィニズムです。

 

それまでのキリスト教カトリック」では、死後の救済は、教会が販売した免罪符、贖宥状を買えば解決しました。人々の働くモチベーションは見当たらず、生活に必要なお金だけを稼ぐだけの、体たらくな有様でした。そもそもキリスト教も貪欲な金儲けを禁じていました。

 

カルヴァンは、腐敗、堕落したキリスト教を原点に立ち返らせようと、聖書を丹念に読み込み、神の圧倒的な偉大さを見出します、そこで抽出したのが、この信仰の中心となっている予定説です。

 

予定説では神様に救済される人間は、最初から既に決められているという考え、この考え方は、後々のピューリタン革命アメリカ独立革命など、世界の民主主義革命を動かす、人類史上強力な思想となりました。

 

善人が良い行いを積めば天国に行けるとも限らない、悪い人が悪い行いをし続けても地獄に行くとも限らない、神は、最初から救うべき人間を独断で決めているのです。神の決めることは、人智の及ばないこととして、神の絶対性を示したのです。

 

誰が神に救われるのか、自分は救われる対象なのか、それがわからないようになっているので、人々の間には不安と緊張が生まれます。予定説は、不安を駆り立てるエンジンとしてうまく機能したのです。

 

救われるか、救われないか、わからない宙ぶらりんの状態だから、カルビニズムの人々は必死に働いたのです。自分は救われる人間であるという確信を得るために、やるべき行いに専念する、それが、神に救われる資格を持つ人間に出来る全てのことなのだと信じ、欲望を律し、贅沢を排し、神に定められた天職を全うしようとしました。

 

この生活態度をエートスと言います。このことをヴェーバーは「世俗内禁欲」「行動的禁欲」と名付けました。この場合の禁欲は、一切の欲望を禁じるということではなく、ひたむきに一つのことに専念するというニュアンスになります。

 

この思想は、お金を追求するものでも、自分だけいい思いをするエゴイスティックなものでもなく(エゴイスティックな発想自体キリスト教は否定しています)神から与えられた使命の仕事、それは神から与えられた天職であり、そこで弛まぬ努力をし、結果としてお金が儲かり富裕になる。このことは、天職を与えたもうた神の栄光の証明することになるから良しとされたのです。

 

さらに、自分が救われる人間である確信を強くするには、労働の対価がどれだけ多いか、その量も重要になっていきます。人々は片時も休まず、納期は死守するというように自分を律するようになりました。

 

働くことが救済になると信じているプロテスタントの人々は、まとまったお金を蓄えても無闇に消費しないどころか、その利益を最大化しようとします。蓄積した資本を再投資に回し、次なる再生産のために経営するようになるのです。予定説の救済のために、徹底して合理的な追求によってカルヴィニストの間ではお金が蓄積されていったのです。

 

富を得るための動機をお金以外のところに着目したのがヴェーバーの面白いところでしょう。

 

 

 

ホッブズと対立するルソー

イギリス哲学者のトマス・ホッブズは、人間は支配者(国家)が存在しないと感情がむき出しになり、利己的な争い状態になる、これを自然状態とした。だからこそ、人間は支配者や(国家)を作り従うことで安全に暮らせると考えた。

 

ホッブズが社会契約説で書いているのは、人間が(自然状態)で争わないようにするためには、国家を作りそれに従うことが自己の安全保障になるという思想なのです。

 

これに対しフランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーホッブズに反論することになる。

 

ルソーは、人間にはもともと憐れみの情が備わっており、文明や国家がない状態では寧ろ助け合いながら生きるのだという。ホッブズのいう自然状態では、争いなど起こらず平和的に生きるはずだと考えたのです。

 

ホッブズが自然状態を各人が自己保存のために権利を振りかざして争う状態と捉え、これを「万人の万人に対する闘争」としたのに対し、ルソーは自然状態を自己愛と憐憫に満ちた幸せの状態と考えたのです。

 

民衆は支配者(国家)がいなくても生きていけるが、支配者(国家)は民衆がいなければ生きていけないのだから、民衆と王どちらが真の権力者なのかは明らかであると、「真の権力者は王ではなく、民衆である」と人民主権を世の中に向かって叫んだのが、フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーである。

 

ルソーの人民主権は、今まで不当に扱われてきた民衆の心に火をつけフランス革命にも影響を及ぼしたのだろう。

 

 

 

 

ローマの共和政・ギリシアの民主政なぜ?

ローマもギリシアも小さな都市国家から始まり、ローマ人もギリシア人も部族集団であり、それほど差異はありませんでした。なぜ、ギリシアは民主政に向かい、ローマは共和政に向かったのか。

 

ローマでは「公」が重視され、ローマ人の部族集団では富裕層が貴族のような「氏族社会」を形成しており、その周りに有力者に依存する民衆がいたのです。ギリシアでは「個」が重視され、ギリシア人の部族集団は身分差が希薄な「村落社会」で、市民たちの間は平等であるという意識がはっきりしていました。

 

このように、ローマ人の格差のある氏族社会が共和政をもたらし、ギリシア人の平等な村落社会が民主政をもたらしたと言われています。

 

ローマの共和政が500年近く続いたのに対し、ギリシアの民主政は50年ほどで機能しなくなってしまいました。

 

民主政が機能しなくなった主な要因はポピュリズムと言われています。民主政を正しく機能させるために必要なのは、指導者が民衆を説得し、正しい方向に向かわせる事が民主政においては重要な意味を持ちます。

 

※ ポピュリズムは、民衆の支持のもとに体制と対決する政治姿勢を表す言葉です。負の側面では、民衆の利益や権利の保護、不安の解消を目指した結果、民衆感情に引きずられ、民衆の人気取りに走った状態になります。このことを「民主主義がポピュリズムに陥った」と表現したりします。

 

ギリシアアテナイの政治家で軍人のテミストクレスペリクレスが、民衆をうまく説得し導いていったのでギリシアの民主制はうまく機能することができました。しかし、彼らが亡くなると、民主政はポピュリズムへと変化してしまうのです。

 

ギリシアの哲学者のプラトンは民主制ではなく、賢者による独裁政がいいと主張しています。ローマの五賢帝時代がプラトン独裁制に近いとされています。アリストテレスは貴族制「共和政」がいいと主張しました。貴族というのは、教養と富を持っているので、公金を不正に使う可能性がないのが理由です。

 

マルクス・アウレリウスってどんな人

ハドリアヌス帝アントニヌス・ピウスを後継者に指名する条件として、マルクス・アンニウス・ウェルスルキウス・ウェルスの二人をアントニヌスの養子にするのと、二人の権利も同等とすることとしたのです『マルクス・アンニウス・ウェルスは後のマルクス・アウレリウスである』

ハドリアヌス帝が旅人皇帝であったのに対し、アントニヌス帝はその治世をローマで過ごしています。アントニヌス帝のときのローマは、内政も外交も安定していて、一度の戦争もなかったので、マルクスに位を譲ったとき、ローマの国庫には六億七六〇〇デナアリウスという、最高額の資産が遺されていました。

 

マルクスとウェルスの二人を養子にしたアントニヌス帝でしたが、二人の能力に差を感じていたようです。そして、アントニヌスは亡くなるとき、後をマルクスに託したのですが、マルクスハドリアヌス帝の遺志を尊重し、ウェルスと共にローマを治めることにしたのです。

 

マルクスは義弟ウェルスついて「自省録」で語っています。

「弟として、私の弟のような者をもったこと。彼はその性質により、私をして注意深く身を省みるように刺激し、同時に尊敬と愛情によって私を喜ばせてくれた」

 

ウェルスが脳溢血で亡くなった後マルクスは新たな帝を立てず、一人でローマを治めていきます。ウェルスとの共同統治はわずか八年で終わります。

 

「哲人皇帝」の異名でも知られるマルクス・アウレリウスは、早くから哲学に興味を持っており彼は、ストア哲学の徒でした。ローマ人にとって公職に就くのは名誉なことなので、ストア派はローマ人の価値観に合っていたのだと思います。

 

アウレリウスの治世は、疫病や異民族の侵入、気候変動によっての洪水や飢餓にも悩まされる厳しい時代でした、このような時代には、民衆の心は宗教に救いを求めるようになり、イシス、ミトラスなどが人々の心を捉えるようになっていました。

 

幼い頃から哲学を学んだ哲人皇帝は、昼は異民族と戦いながら、夜は一人皇帝としての責任とは何か、神々と人間の関わりについて、実にさまざまなことをストア派の伝統に基づいて書き続け、まとめたのが「自省録」なのです。

 

かつてプラトンは、ギリシャの民主主義に絶望し、最も望ましいのは優れた哲学者が皇帝になる「賢者の独裁」だと主張しました。こうした考えに基づけば、マルクス・アウレリウスは理想的な皇帝だったのではないかと思います。