エピクロスってどんな人

エピクロスは、古代ギリシャの哲学者でアカデメイアで哲学を学び、アテナイ市に哲学の学園を作り仲間たちと共同生活を送っていた。

 

古代ギリシャでは、奴隷民と自由民(市民)と厳密に分かれており、市民は自由民と呼ばれた人たちだけを指したが、エピクロスは奴隷の身分の者にも学園への参加を許し、当時としては珍しく女性が入園することもできた。

 

エピクロスは公の場で有名になるよりも、私的な交際を好んだと言われている。その彼の有名な言葉が「隠れて生きよ」である。

 

『地位や名声を得ることは快いが、しかし同時に不安に苛まれることにもなるだろう。だとすれば、そうしたものを追い求めるのではなく、むしろ、遠ざけることによって心の安らぎを得るのが良いという考えだ』

 

さらに、神に対して恐怖を抱いたり、死を恐れたりするのも無用なことだと言っている。死への恐怖について述べた有名なくだりがある。

 

『死は我々にとって何者でもない。我々が存在するときには、死は我々のところにはないし、死が我々のところにあるときには、我々は存在しないからである』

 

一般にエピクロスは『快楽主義』の哲学者として知られる、それは、死についてくよくよ煩わしく考えるよりも今を楽しく生きよという教えだからである。

 

「今日の果実を摘み取れ」西洋人ならたいてい知っている言葉で、「今日を楽しめ」という意味で用いられる。

 

ローマの詩人ホラティウスの「歌集」という作品でも、「こうして喋っている間にも、時は容赦なくすぎていくだろう、明日のことは微塵にも信を置くことなく、今日を楽しめ」過去のことはくよくよ考えていても始まらない、明日のことはわかろうはずがない。とすれば、今を楽しく生きようじゃないか。という考えである。

 

しかし、エピクロスの『快楽主義』はこうした考えとは程遠いものであった

 

彼は臨終の際に排尿困難などの病魔に侵されていたが、弟子たちに、死を前にしたひと時を精神の喜びに満ちた幸福な日々だと述べている。エピクロスの『快楽主義』はここにある。『わずかなことに満足できない者はなににも満足することはない』『善いことも悪いことも全て感覚のうちにあるものだが、死はその感覚の欠如なのである』という言葉もある。

 

まるで禅者の悟りを連想させる無欲の境地だが、これを徹底させるのはある種の達観であって、普通の人間にはなかなか困難である。