仕事の意味
- アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』
ギリシア神話に登場するシーシュポスは、神からの罰でタルタロスで巨大な岩を山頂まで運ばされる。あと少しで山頂に達すると岩はその重みで底まで転がり落ちてしまう。シーシュポスはまた一から同じ作業を繰り返す。
→不毛な労働が延々に続くのが、最も残酷な罰であることをわきまえている点に神々の賢さが表れていると述べている。神々が不毛で望みなき労働以上に残酷な罰はないと考えたのである。
『人間は生活のために労働する必要を感じる唯一の生き物だ、労働がなければ、私たちは退屈のあまり死にたくなってしまうだろう』
→退屈とはやることの量の多寡にではなく、自分の行うことにどうやったら意味を見出せるかに関わる問題だ、そうした意味をうまく見出せないでいる時、時間はおそるべき重圧となる。
→ある考えが浮かんだ。どれほど凶悪な殺人者も震え上がり、聞かされただけで立ち所に尻込みするような、何よりも恐ろしい刑罰を加えて、ある男を完膚なきまでに打ちのめしてやりたいと思ったのなら、その男を仕事に就かせればよい、ただし、全くもって得るところも意味もないような仕事にだ。
『客体化』と『疎外』を区別した上で、人間は労働する中で自らの本質を表明する、客体化への欲求をも人間だけが疎外されうる。
→労働を行い、外界を変形させてゆくとき、人々は自分自身を外的な財という形で客体化している。
→疎外の一つの分業については「分業が創造過程の断片化を招き、作業がどこまでも細分化され、その結果についには労働自体が無意味になる。
※客体化とは、主体である自分以外のもの、または、主体の意思・認識・行為などの対象となるもの。例えば「私は美しい花を見ている」『私』は主体で『花』は客体になります。
※疎外とは、疎遠なものになってしまう、関係ないようなものになってしまう。ということ。
※分業とは、効率化の追求のため全ての工程を一人で担当するのではなく、複数の人員が分担すること。
→各々の労働者がその生得的な資質に従って、特定の技能を要する作業に従事すること。
分業は人々の生得的な資質の差から帰結するものではない「生産向上のためには、分業こそ常に最も重要な要因であり続ける」
→一人目が針金を引き伸ばし、二人目がそれを真っ直ぐにし、三人目がそれを切断し、四人目が先端を尖らせ、五人目がその先端を磨いて頭部を揃える。頭部を作るのにも、二、三の異なる作業が必要となる。こんな風に一本のピンを作り上げるという重要な仕事は、約十八の異なる作業から出来上がっている。いくつかの工場では、これらの作業が全て異なった人間の手で営まれいる場合や、一人の人間がこのうち二、三の工程をこなしている場合もある。
→こうした分業によって、1日に一人あたりの製造可能なピンの本数が、個々の労働者がめいめいで一本のピンを丸ごと作るときに製造できる本数と比べた場合に、どれほど膨大な数に達するだろうか。