マックス・ヴェーバーからみる金儲け

お金持ちになるのは、金銭欲の強い、お金に執着する人であるとは限らない、むしろ、お金への執着を離れ、ストイックに働いた人がお金持ちなったのだと、社会学の祖マックス・ヴェーバーは言います。

 

ヴェーバーは、キリスト教における、カトリックプロテスタントの人々の経済格差に注目し、資本の保有や仕事の質と言った点で、プロテスタンティズムの人々の方がカトリックの信徒よりも裕福であるというデータに着眼したのです。

 

ヴェーバーが研究したのは16世紀フランス出身の神学者ジャン・カルヴァン宗教改革でスタートさせた、プロテスタントの一派のカルヴィニズムです。

 

それまでのキリスト教カトリック」では、死後の救済は、教会が販売した免罪符、贖宥状を買えば解決しました。人々の働くモチベーションは見当たらず、生活に必要なお金だけを稼ぐだけの、体たらくな有様でした。そもそもキリスト教も貪欲な金儲けを禁じていました。

 

カルヴァンは、腐敗、堕落したキリスト教を原点に立ち返らせようと、聖書を丹念に読み込み、神の圧倒的な偉大さを見出します、そこで抽出したのが、この信仰の中心となっている予定説です。

 

予定説では神様に救済される人間は、最初から既に決められているという考え、この考え方は、後々のピューリタン革命アメリカ独立革命など、世界の民主主義革命を動かす、人類史上強力な思想となりました。

 

善人が良い行いを積めば天国に行けるとも限らない、悪い人が悪い行いをし続けても地獄に行くとも限らない、神は、最初から救うべき人間を独断で決めているのです。神の決めることは、人智の及ばないこととして、神の絶対性を示したのです。

 

誰が神に救われるのか、自分は救われる対象なのか、それがわからないようになっているので、人々の間には不安と緊張が生まれます。予定説は、不安を駆り立てるエンジンとしてうまく機能したのです。

 

救われるか、救われないか、わからない宙ぶらりんの状態だから、カルビニズムの人々は必死に働いたのです。自分は救われる人間であるという確信を得るために、やるべき行いに専念する、それが、神に救われる資格を持つ人間に出来る全てのことなのだと信じ、欲望を律し、贅沢を排し、神に定められた天職を全うしようとしました。

 

この生活態度をエートスと言います。このことをヴェーバーは「世俗内禁欲」「行動的禁欲」と名付けました。この場合の禁欲は、一切の欲望を禁じるということではなく、ひたむきに一つのことに専念するというニュアンスになります。

 

この思想は、お金を追求するものでも、自分だけいい思いをするエゴイスティックなものでもなく(エゴイスティックな発想自体キリスト教は否定しています)神から与えられた使命の仕事、それは神から与えられた天職であり、そこで弛まぬ努力をし、結果としてお金が儲かり富裕になる。このことは、天職を与えたもうた神の栄光の証明することになるから良しとされたのです。

 

さらに、自分が救われる人間である確信を強くするには、労働の対価がどれだけ多いか、その量も重要になっていきます。人々は片時も休まず、納期は死守するというように自分を律するようになりました。

 

働くことが救済になると信じているプロテスタントの人々は、まとまったお金を蓄えても無闇に消費しないどころか、その利益を最大化しようとします。蓄積した資本を再投資に回し、次なる再生産のために経営するようになるのです。予定説の救済のために、徹底して合理的な追求によってカルヴィニストの間ではお金が蓄積されていったのです。

 

富を得るための動機をお金以外のところに着目したのがヴェーバーの面白いところでしょう。