理性主義と経験主義

人間の認識には「理性主義」と「経験主義」と対立しあう二つの立場がありました。理性主義は、産まれた時からそなわっている、標準装備されている観念があることを言います。

 

観念は機能と考えるとわかりやすいです。

 

私たちの持っている観念は、大部分が見たり触ったりといった、感覚的経験によって得られる経験的観念だが、それ以外に、だれでもが一様に持っていて日頃から使っている観念があります。それが数の概念や図形の概念などです。

 

これが「理性的観念」「生得観念」「先天的観念」と呼ばれていました。

 

この理性的認識は、理性をもつ者なら誰でもがもっている、普遍的観念に基づく認識で、いつだれがどこで考えても、そうとしか考えられない普遍性がそなわっていると思われてきました。そうした「理性主義」の考え方を批判したのが「経験主義」の立場のイギリスの哲学者たちです。

 

彼らは、私たちのもつ観念は全て「経験的観念」であり、私たちの認識は全て「経験的認識」だと考えようとしました。

 

見たり触ったりする感覚的経験を通して得られる観念を「経験的観念」こうした観念を使って得られる認識が「経験的認識」です。

 

このように、経験的観念はその経験をした人しか持っておらず、経験的認識も同じ経験をした人しか真であると認めません。つまり、経験的認識のもつ真理性は、同じ経験をした人たちの多くが自分の経験したかぎりではそうだったと認める程度の確かさなのです。

 

いつどこでだれが考えてもそうとしか考えられないという、絶対的普遍性は持ち合わせておらず、有限な人間には神のように絶対的真理を手に入れることは出来ないのであり、経験的観念や経験的認識で我慢するしかないと、彼らは考えたのです。