理性主義と経験主義

人間の認識には「理性主義」と「経験主義」と対立しあう二つの立場がありました。理性主義は、産まれた時からそなわっている、標準装備されている観念があることを言います。

 

観念は機能と考えるとわかりやすいです。

 

私たちの持っている観念は、大部分が見たり触ったりといった、感覚的経験によって得られる経験的観念だが、それ以外に、だれでもが一様に持っていて日頃から使っている観念があります。それが数の概念や図形の概念などです。

 

これが「理性的観念」「生得観念」「先天的観念」と呼ばれていました。

 

この理性的認識は、理性をもつ者なら誰でもがもっている、普遍的観念に基づく認識で、いつだれがどこで考えても、そうとしか考えられない普遍性がそなわっていると思われてきました。そうした「理性主義」の考え方を批判したのが「経験主義」の立場のイギリスの哲学者たちです。

 

彼らは、私たちのもつ観念は全て「経験的観念」であり、私たちの認識は全て「経験的認識」だと考えようとしました。

 

見たり触ったりする感覚的経験を通して得られる観念を「経験的観念」こうした観念を使って得られる認識が「経験的認識」です。

 

このように、経験的観念はその経験をした人しか持っておらず、経験的認識も同じ経験をした人しか真であると認めません。つまり、経験的認識のもつ真理性は、同じ経験をした人たちの多くが自分の経験したかぎりではそうだったと認める程度の確かさなのです。

 

いつどこでだれが考えてもそうとしか考えられないという、絶対的普遍性は持ち合わせておらず、有限な人間には神のように絶対的真理を手に入れることは出来ないのであり、経験的観念や経験的認識で我慢するしかないと、彼らは考えたのです。

 

饗宴のディオティマってどんな人

人は何のために生きるのか。人は幸福のために生きるのだろうか。古代の哲学においては、幸福に生きるかどうかは選択の問題ではなかった。

 

人間が幸福に生きることは、人間が生まれながらにして持っている願望である。したがって、そこは問題ではない。問題はどうやって幸福に生きるかにある。その一つの目標になりうるのは、名誉や名声を求めて生きることかもしれない。とディオティマは言う。

 

プラトン饗宴に登場するディオティマという女性は、ソクラテスに興味深い話をしている。

 

人間だけでなく、すべての生きものは幸福を求めて生きている。その幸福とは永遠の生である。けれども、死すべき生きものにはいつか死が訪れる。そのために、生きものは自分の代わりのものを後に残すだけと言うのである。

 

動物は個体としてはいつかは死に絶えるが、出産という行為によって、自分に似た個体を後に残していく。個体としての動物は不死ではないが、出産という行為によって、その種の全体において不死であろうとするわけである。今ならこれは動物の本能として説明されるだろう。

 

饗宴」は「愛」エロースをテーマとする作品なので、動物はエロースの働きによって不死願うわけである。

 

動物は出産という行為によってのみ不死を追求することが可能となるが、人間の場合はそれだけではないと、ディオティマは言っている。人間は他の動物と違って、自分がこの世において成したことを後世に残したいと考える。

 

つまり、自分という個体は無くなっても、自分がこの世において生きていたという証のようなものを残そうとするのである。名誉、名声を求めることはそうした例に含まれる。それはいわば精神的な意味での出産であると。

 

死後の名声に期待を寄せる人は、自分のことを覚えている人自身もまた、死んでしまい、やがてはその記憶の全体が消え去ってしまという、という事実を心に留めるべきだと、マルクス・アウレリウス自省録で語っている。

 

 

 

 

奴隷出身の哲学者エピクテトスとは

エピクテトスとは、古代ギリシャストア派の奴隷出身の哲学者である。エピクテトスは、学者でもエリートでもない、奴隷としての出目、慢性的な肢体不自由といった多くの困難を抱えていた、解放奴隷出身の哲学者とは哲学史上でも珍しい人物である。

 

エピクテトスが哲学に求めたのは、一言で言えば「人はいかにして精神の自由を得ることができるか」というと問いに尽きている。

 

「哲学は外部にある何かを得ることを約束するものではない」

 

人は哲学をすることで、外の世界から何かを獲得するのではなく、むしろ自分の心を改心することになる。

 

例えば、死に対する恐怖である「人々を不安にするのは、事柄ではなく、事柄についての思いである。死はなんら恐るべきものではなく、むしろ死は恐ろしい物だという死についての思い、これが恐ろしいものなのだ」

 

私たちは普通死を体験するのは、他人の死によってである。友人や家族、テレビや新聞を通じて人の死を経験するが、自分の死を経験を経験するときには自分は死んでいるわけだから、それについて恐怖を抱くことはできない。つまり、他人の死によって自分にいつか訪れる死を推測するわけである。

 

エピクテトスは、人がなにかを楽しんでいる時それと反対のことを頭に思い浮かべると良いといっている。例えば、子供にキスするときにその子について「もしかしたら明日死ぬかもしれないよ」と呟くのである。

 

どれほど子供を愛していても、その子は死すべきものであり、自分が永遠に所有できるものではなく、いつかは失われるからである。

 

「周囲にあるものが自分のものだと満足しているが、それらは借り物でしかない」

 

美貌や健康が失われると悲しまざるをえない。しかし、そうしたものが本来自分の所有でないことに気づけば、悲しむことはないわけである。人生において苦しまぬようにするために、自分の支配の外にあるものに期待するな。というのが、この思想の真髄である。

 

ストア派は、簡単に言えば、悲しいことに耐えるためには、最初から絶望しておけばよいという考えである。

 

なにか偶然的な要因で自分が不幸と感じている場合に、それは本当に不幸なのだろうか、あるいは幸福感を味わっているときに、それは本当に幸福だと言えるのだろうか、ということである。エピクテトスが教えているのは、不幸な環境にあっても幸福であることは可能だということである。

 

人間はどのようにすれば幸福であることができるのか。巨万の富、高い地位、美貌や健康を得ることによって幸福であることができのか。ストア派のこれに対する答えは否である。

 

これら一般的に幸福の条件とされるものは、それ自体として善でも悪でもない。これを善悪無記という。他にも、生死や快苦が挙げられる。これらのものは、徳を伴ってはじめて善きものとなるのである。この思想はソクラテスのものでもある。

 

エピクテトスは、徳という言葉をあまり使わず、代わりに「選択意志=プロアイレシス」を好んで使っていた。

 

エピクテトスは、人間の魂を全く別の理性的なものと考えてる。あらゆる欲望や情念を、魂による真なる、あるいは偽なると判断とみなしている。つまり、悪き行為は、理性が不合理な欲望に負けておこなわれるのではなく、理性が誤った判断をするためだという。

 

したがって、選択意志だけは、どのような状況にあっても「妨げられたり、強制されたりすることはない」のである。

 

例えば病気である、エピクテトスによれば、病気はそれ自体は悪ではないのである。病気は肉体の妨げとなっても、意志の妨げとはならないだろう。足が不自由であれば歩行の妨げとなるが、これも意志の妨げとはならない。つまり、他の何かの妨げになっても、自分自身の妨げにはならないのである。

 

エピクテトスの思考と行動を支えているのは常に神であった。エピクテトスは、人間は自分の前に立ち現れる心像(人間の意識や精神になんらかの対象が現れること)に対して、自らの意志によって自由に行動することができると、考えたのである。

 

 

 

 

 

 

セネカってどんな人

セネカはスペインの南部コルドゥバの裕福な騎士階級に生まれた。幼くしてローマに渡り、そこで当時の裕福な弟子と同様に政界に入るべく弁論の技術を学び、ストア派哲学者のアッタロスなどの哲学者にも教えを受けていた。

 

その頃の学習がセネカの美しい文章の素地となったわけである。

 

時の皇帝争いの中セネカはリウィッラと共に姦通罪で告発された。全くの濡れ衣であったがコルシカ島に流刑されることとなる。しかし、皇后メッサリナが亡くなり、アグリッピナの尽力によりローマに召喚される。(アグリッピナは姦通罪で流刑されたリウィッラの妹である)。

 

*アグリッピナは暴君ネロの母親でもある。

 

セネカ自身は哲学の勉強のためにアテナイへ行きたかったが、アグリッピナの指示によって、彼女の息子ネロ(ドミティウス)の教育係を務めることになる。

 

セネカは政治家としての栄達によって資産は膨大に膨れ上がったローマ帝国内の各地にいくつも領地を有しており、多額の現金もあった。その資産額は三億セステルティウスであったという。ローマでは二万四千セステルティウスあれば暮らしていけたので、相当な資産であったのは確かだ。

 

セネカとは、一方で清貧の生を説きながら、他方でせっせと資産を築いていく哲学者』

 

暴君ネロの事積の中でのセネカの行動を見ると、セネカとは果たしてどのような人物であったのかについて、疑念が浮かんでくる。巨万の富を持ち、多くの別荘を有していた哲人が語るストア派の清貧な思想には、果たしてどれほどの説得力があるのだろうか。この疑問はすでに同時代においても存在していた。

 

セネカは確かに清貧のうちに生きたディオゲネスではなかった。ディオゲネスは水を手ですくって飲む子供を見て、持ち歩いていた柄杓を捨てて、余分な物を持っていたことに気づかなかったと言ったが、セネカの説くのはこのようなミニマリストの生き方ではない。

 

セネカに言わせれば、柄杓を持っていても、持っていなくても、いずれは死が訪れるという点では同じことなのだ。

 

セネカの最期はタキトゥスによって事細かに記述している。

 

セネカと妻のパウリナは同時に血管を切り裂く、ネロは妻のパウリナに恨みはなかったので、彼女の自殺を阻止するよう兵士に命じ助け、一方セネカの方は、節食をして痩せていたため血の出が悪く、さらに足首と膝の血管を切るが、それでも死ぬことができなかった。

 

そこで、セネカは親しい医師のスタティウス・アンナエウスに毒薬を持ってくるよう頼んだが、この毒薬(コーネイオン、ソクラテスも飲んだとされる)は死刑を宣告されたものが飲むよう決められていたものであるが、これも効き目がなく、やむなく熱湯の風呂(当時のサウナ)の熱気によってようやく息を引き取ったと言われている。セネカはこのような壮絶な最期を遂げた。

 

セネカは皇帝ネロによって政治家としての栄達を果たし、巨万の富を得た。晩年には皇帝の相談役の仕事を辞し、静寂な生活に入ろうとしたが、しかし許されることはなかった。セネカは自分の意志によって一生を送ることはできなかった。

 

セネカは、何度もアテナイの哲人ソクラテスに言及したが、ソクラテスのように生きることも、ソクラテスのように死ぬこともできなかった。

 

 

エピクロスってどんな人

エピクロスは、古代ギリシャの哲学者でアカデメイアで哲学を学び、アテナイ市に哲学の学園を作り仲間たちと共同生活を送っていた。

 

古代ギリシャでは、奴隷民と自由民(市民)と厳密に分かれており、市民は自由民と呼ばれた人たちだけを指したが、エピクロスは奴隷の身分の者にも学園への参加を許し、当時としては珍しく女性が入園することもできた。

 

エピクロスは公の場で有名になるよりも、私的な交際を好んだと言われている。その彼の有名な言葉が「隠れて生きよ」である。

 

『地位や名声を得ることは快いが、しかし同時に不安に苛まれることにもなるだろう。だとすれば、そうしたものを追い求めるのではなく、むしろ、遠ざけることによって心の安らぎを得るのが良いという考えだ』

 

さらに、神に対して恐怖を抱いたり、死を恐れたりするのも無用なことだと言っている。死への恐怖について述べた有名なくだりがある。

 

『死は我々にとって何者でもない。我々が存在するときには、死は我々のところにはないし、死が我々のところにあるときには、我々は存在しないからである』

 

一般にエピクロスは『快楽主義』の哲学者として知られる、それは、死についてくよくよ煩わしく考えるよりも今を楽しく生きよという教えだからである。

 

「今日の果実を摘み取れ」西洋人ならたいてい知っている言葉で、「今日を楽しめ」という意味で用いられる。

 

ローマの詩人ホラティウスの「歌集」という作品でも、「こうして喋っている間にも、時は容赦なくすぎていくだろう、明日のことは微塵にも信を置くことなく、今日を楽しめ」過去のことはくよくよ考えていても始まらない、明日のことはわかろうはずがない。とすれば、今を楽しく生きようじゃないか。という考えである。

 

しかし、エピクロスの『快楽主義』はこうした考えとは程遠いものであった

 

彼は臨終の際に排尿困難などの病魔に侵されていたが、弟子たちに、死を前にしたひと時を精神の喜びに満ちた幸福な日々だと述べている。エピクロスの『快楽主義』はここにある。『わずかなことに満足できない者はなににも満足することはない』『善いことも悪いことも全て感覚のうちにあるものだが、死はその感覚の欠如なのである』という言葉もある。

 

まるで禅者の悟りを連想させる無欲の境地だが、これを徹底させるのはある種の達観であって、普通の人間にはなかなか困難である。

 

 

ストア派の倫理学とは

ストア派倫理学ディオゲネスが唱えた「自然に従って生きよ」である。

 

自然に従って生きるとはどういうことなのか、これについてストア派は、人間の心の中で、何が善いとか悪いとか判断する理性を正しく働かせているのが最適の状態で、この状態のことを「徳」と呼んでいる。

 

徳というと、道徳とか孔孟思想とかを連想するかもしれないが、そういう徳ではない。ストア派によれば、正しく理性を働かせて行なった行為が徳のある行為で、たとえば、私たちは長命であること、健康であること、美しいこと、豊かな財産を所有していること、多くの人に評価され名声や名誉を得ること、権力を持っていることは、徳ではないという。

 

長命、健康、美貌、財産、名声はそれ自体として考えた場合に、善でも悪でもないのである。そうしたものは外部的な条件にすぎず、それらをどのように用いるのか、そしてそのためには理性を正しく働かせることが肝要なのだ。

 

ストア派によれば、正しく理性を働かせて徳を持った状態、この状態こそが「幸福」な状態ということになる。

 

そのためには、善を悪と見誤ってはならない。過誤を引き起こし、人の心に生じるさまざまな「情念」であるという。

 

情念とは、恐怖、欲望、快楽、苦痛などの感情を指している。たとえば、病気は辛いものであるが、ストア派によれば、健康それ事態として善ではないように、病気もそれ自体としては悪ではないことになる。健康も病気も身体が置かれた状態だからである。

 

そして、その病気に対して人間がどのような態度を取るかというところで善悪が分かれてくる。

 

恐怖や苦痛に苛まれるような状態をどのようにして克服するかが問題となる、そうした情念が克服された状態をストア派は「アパテイア」無情念という。

 

しかし、情念のない状態など、死なないかぎり得られるものではない、ストア派が言っているアパテイア、さまざまな情念に影響されないこと、動かされないことである。禅との違いは、禅は知を働かすということは悟りの妨げなると考えるが、ストア派の場合は、それは知を働かせることによって可能となることである。

 

 

 

カール・ハインリヒ・マルクスと唯物史観と資本論

マルクスヘーゲルの「絶対精神」を「生産力」と置き換えた。社会は絶対精神を実現するために進化を続けていくと、ヘーゲルは考えた。マルクスは、社会が進化するというヘーゲルの考え方を強く支持しました。

 

マルクスは具体的に何が進歩の原動力になるのか、それが大切だと考えました。そして世界を進歩させるのは、絶対精神のような観念ではなく物質なのだと考えたのです。

 

その物質とは社会の経済構造が生み出す生産力を指しています。マルクスは社会の構造を、社会は土台(下部)となる経済構造の上に、政治・法制・イデオロギーなどの(上部)が乗る形で存在している。そして上部は下部によって規定され、両者は不可分に結びついていると。

 

絶対精神のような理念が歴史を動かすのではなく、歴史を動かすのは具体的な生産力だ、という思想をマルクスは確立したのです。

 

強者となった人間が弱者となった人間を奴隷として酷使する奴隷制社会が最初にあった。主人と奴隷がいるだけの単純な社会です。その次に封建制社会に移ります、君主がいて地方領主がいて、さらに農奴がいて奴隷もいる社会です。

 

産業革命によって社会の規模が拡大し人口も増加し、生産力も上がります。そこで封建制から資本主義の段階に進み、次に社会主義から共産主義へと歴史は進むとマルクスは考えて、唯物史観を構築しました。

  • 社会主義とは、資本は国のもので、国がそれらを管理して平等にする体制。個人が資本を所有することを認められません。
  • 共産主義とは、社会主義の進化版で、社会主義では、企業が得た利益を国が管理し、国民の給料も国が管理して分配します。共産主義では、そもそもすべての利益をみんなで共有するという考えであり、国が管理する制度自体もいらないこととなります。

 

マルクスは資本主義社会では、ブルジョワー(有産階級)が生産手段を独占していると考えます。このように生産手段を独占しているブルジョワー(有産階級)は、労働の付加価値を高めようとします。マルクスは、付加価値は土地と資本と労働によって生み出されると考えました。

 

『土地と資本という生産手段を独占しているブルジョワー(有産階級)はこの付加価値を高めるために、労働者を長時間にわたり、なるべく安い賃金で働かせようとする、つまり搾取です』

 

マルクスは、このような労働の阻害を阻止するために、生産手段を公有化すべきであるという理論を確立します。しかし生産手段を公有化したいと労働者が考えても、それを独占しているブルジョワーが黙って公有化を認めるわけもなく、そこで起きるのが階級闘争であるとマルクスは考えました。

 

『労働者(プロレタリアート)が階級闘争に勝利すれば、生産手段は公有化されて社会主義国家となり、社会主義国家が世界的に勝利し、次の段階に進めばやがて共産主義の世界になる。それが世界の進歩であると』

 

哲学者でありながら、マルクスは独自の世界観をベースにする独特な政治思想を構築しました。