セネカってどんな人

セネカはスペインの南部コルドゥバの裕福な騎士階級に生まれた。幼くしてローマに渡り、そこで当時の裕福な弟子と同様に政界に入るべく弁論の技術を学び、ストア派哲学者のアッタロスなどの哲学者にも教えを受けていた。

 

その頃の学習がセネカの美しい文章の素地となったわけである。

 

時の皇帝争いの中セネカはリウィッラと共に姦通罪で告発された。全くの濡れ衣であったがコルシカ島に流刑されることとなる。しかし、皇后メッサリナが亡くなり、アグリッピナの尽力によりローマに召喚される。(アグリッピナは姦通罪で流刑されたリウィッラの妹である)。

 

*アグリッピナは暴君ネロの母親でもある。

 

セネカ自身は哲学の勉強のためにアテナイへ行きたかったが、アグリッピナの指示によって、彼女の息子ネロ(ドミティウス)の教育係を務めることになる。

 

セネカは政治家としての栄達によって資産は膨大に膨れ上がったローマ帝国内の各地にいくつも領地を有しており、多額の現金もあった。その資産額は三億セステルティウスであったという。ローマでは二万四千セステルティウスあれば暮らしていけたので、相当な資産であったのは確かだ。

 

セネカとは、一方で清貧の生を説きながら、他方でせっせと資産を築いていく哲学者』

 

暴君ネロの事積の中でのセネカの行動を見ると、セネカとは果たしてどのような人物であったのかについて、疑念が浮かんでくる。巨万の富を持ち、多くの別荘を有していた哲人が語るストア派の清貧な思想には、果たしてどれほどの説得力があるのだろうか。この疑問はすでに同時代においても存在していた。

 

セネカは確かに清貧のうちに生きたディオゲネスではなかった。ディオゲネスは水を手ですくって飲む子供を見て、持ち歩いていた柄杓を捨てて、余分な物を持っていたことに気づかなかったと言ったが、セネカの説くのはこのようなミニマリストの生き方ではない。

 

セネカに言わせれば、柄杓を持っていても、持っていなくても、いずれは死が訪れるという点では同じことなのだ。

 

セネカの最期はタキトゥスによって事細かに記述している。

 

セネカと妻のパウリナは同時に血管を切り裂く、ネロは妻のパウリナに恨みはなかったので、彼女の自殺を阻止するよう兵士に命じ助け、一方セネカの方は、節食をして痩せていたため血の出が悪く、さらに足首と膝の血管を切るが、それでも死ぬことができなかった。

 

そこで、セネカは親しい医師のスタティウス・アンナエウスに毒薬を持ってくるよう頼んだが、この毒薬(コーネイオン、ソクラテスも飲んだとされる)は死刑を宣告されたものが飲むよう決められていたものであるが、これも効き目がなく、やむなく熱湯の風呂(当時のサウナ)の熱気によってようやく息を引き取ったと言われている。セネカはこのような壮絶な最期を遂げた。

 

セネカは皇帝ネロによって政治家としての栄達を果たし、巨万の富を得た。晩年には皇帝の相談役の仕事を辞し、静寂な生活に入ろうとしたが、しかし許されることはなかった。セネカは自分の意志によって一生を送ることはできなかった。

 

セネカは、何度もアテナイの哲人ソクラテスに言及したが、ソクラテスのように生きることも、ソクラテスのように死ぬこともできなかった。