奴隷出身の哲学者エピクテトスとは

エピクテトスとは、古代ギリシャストア派の奴隷出身の哲学者である。エピクテトスは、学者でもエリートでもない、奴隷としての出目、慢性的な肢体不自由といった多くの困難を抱えていた、解放奴隷出身の哲学者とは哲学史上でも珍しい人物である。

 

エピクテトスが哲学に求めたのは、一言で言えば「人はいかにして精神の自由を得ることができるか」というと問いに尽きている。

 

「哲学は外部にある何かを得ることを約束するものではない」

 

人は哲学をすることで、外の世界から何かを獲得するのではなく、むしろ自分の心を改心することになる。

 

例えば、死に対する恐怖である「人々を不安にするのは、事柄ではなく、事柄についての思いである。死はなんら恐るべきものではなく、むしろ死は恐ろしい物だという死についての思い、これが恐ろしいものなのだ」

 

私たちは普通死を体験するのは、他人の死によってである。友人や家族、テレビや新聞を通じて人の死を経験するが、自分の死を経験を経験するときには自分は死んでいるわけだから、それについて恐怖を抱くことはできない。つまり、他人の死によって自分にいつか訪れる死を推測するわけである。

 

エピクテトスは、人がなにかを楽しんでいる時それと反対のことを頭に思い浮かべると良いといっている。例えば、子供にキスするときにその子について「もしかしたら明日死ぬかもしれないよ」と呟くのである。

 

どれほど子供を愛していても、その子は死すべきものであり、自分が永遠に所有できるものではなく、いつかは失われるからである。

 

「周囲にあるものが自分のものだと満足しているが、それらは借り物でしかない」

 

美貌や健康が失われると悲しまざるをえない。しかし、そうしたものが本来自分の所有でないことに気づけば、悲しむことはないわけである。人生において苦しまぬようにするために、自分の支配の外にあるものに期待するな。というのが、この思想の真髄である。

 

ストア派は、簡単に言えば、悲しいことに耐えるためには、最初から絶望しておけばよいという考えである。

 

なにか偶然的な要因で自分が不幸と感じている場合に、それは本当に不幸なのだろうか、あるいは幸福感を味わっているときに、それは本当に幸福だと言えるのだろうか、ということである。エピクテトスが教えているのは、不幸な環境にあっても幸福であることは可能だということである。

 

人間はどのようにすれば幸福であることができるのか。巨万の富、高い地位、美貌や健康を得ることによって幸福であることができのか。ストア派のこれに対する答えは否である。

 

これら一般的に幸福の条件とされるものは、それ自体として善でも悪でもない。これを善悪無記という。他にも、生死や快苦が挙げられる。これらのものは、徳を伴ってはじめて善きものとなるのである。この思想はソクラテスのものでもある。

 

エピクテトスは、徳という言葉をあまり使わず、代わりに「選択意志=プロアイレシス」を好んで使っていた。

 

エピクテトスは、人間の魂を全く別の理性的なものと考えてる。あらゆる欲望や情念を、魂による真なる、あるいは偽なると判断とみなしている。つまり、悪き行為は、理性が不合理な欲望に負けておこなわれるのではなく、理性が誤った判断をするためだという。

 

したがって、選択意志だけは、どのような状況にあっても「妨げられたり、強制されたりすることはない」のである。

 

例えば病気である、エピクテトスによれば、病気はそれ自体は悪ではないのである。病気は肉体の妨げとなっても、意志の妨げとはならないだろう。足が不自由であれば歩行の妨げとなるが、これも意志の妨げとはならない。つまり、他の何かの妨げになっても、自分自身の妨げにはならないのである。

 

エピクテトスの思考と行動を支えているのは常に神であった。エピクテトスは、人間は自分の前に立ち現れる心像(人間の意識や精神になんらかの対象が現れること)に対して、自らの意志によって自由に行動することができると、考えたのである。