マダニの環世界

理論生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、私たちは普段、自分たちをも含めたあらゆる生物が同じ時間と同じ空間を生きていると考えている。ユクスキュルはそこを疑った。

 

全ての生物がその中に置かれているような単一な世界など存在しない。全ての生物は別々の時間と空間を生きている。

 

ユクスキュルの「生物から見た世界」のマダニの事例がある。ダニの生態がこれまた面白い。

 

ダニのメスは交尾を終えると、8本の肢を使って適当な枝までよじ登る。よじ登ることに成功すると、哺乳類が近くに来るのを待つ。下を通りかかる小哺乳類の上に落ちるか、大型動物に擦り取られるかを待つ。うまいこと哺乳類の皮膚とりつくことができたなら、待望のその生き血を吸う。

 

ダニは、目も見えなければ耳も聞こえない、どのように哺乳類にダイブするかと言えば、ダニは哺乳類の接近を嗅覚によって知る。ダニは非常に優れた嗅覚をもっているのだ。哺乳類の皮膚からは酪酸と呼ばれる物質が発せられている。ダニはそのにおいを嗅ぎ取るのだ。

 

酪酸を嗅ぎ、枝から落ちるダイブが、必ずしも成功する保証はない。失敗すれば元いた枝にもう一度登らなくてはならない。

 

哺乳類の上に落ちたダイブの成功を知るのは、その鋭敏な温度感覚によってである。ダニは正確に摂氏37度の温度を感じ取ることができるのだ。着地点の温度が摂氏37度であったならば、今度は触覚を使ってなるべく毛の少ない場所を探す。適当な場所が見つかると獲物の皮膚組織に頭から食い込み血を吸う。

 

ダニはダイブに成功するとたっぷりと血のごちそうをいただく。このごちそうは、実はダニの最後の晩餐である。といういのもこの後でダニに残されているのは、地面に落ちて産卵して死ぬことだけだからだ。

 

ダニのメスは枝で待ち伏せてる前に交尾を済ませている。哺乳類の血液がダニの胃に入ってくると、精子は精包という器官から解放されて、卵巣内で休んでいた卵を受精させる。血液は次世代の栄養となるのだ。

 

なぜこんな面倒な仕組みになっているのかは、ダニは長期間にわたって枝の上で、酢酸のにおいを待ち続けなければならない。果たしてうまくダイブできる確率はいかほどだろうか?

 

バルト海沿岸のドイツの都市ロストックの動物学研究所では、それまで既に18年間絶食しているダニが生きたまま保存されていたというのだ。18年間、飲まず食わずで、ただ酪酸の匂いを待ち続けるダニ。驚きでしかない。